修業時代が報われる…

医師とは一生、修行を続けなければならない存在なのだが、医師の修業時代といえば国家試験に合格し、晴れて医師となった最初の2年間にあたる初期研修時代が挙げられる。この2年間を説明する時に避けて通れないのが、2004年度から始まった新臨床研修制度である。この制度を一言で説明すると、医学部を卒業して間もない研修医に「給与」と「研修の機会」を2年間きちんと保障しましょうというものである。医師国家試験に合格すると、全国に数多ある初期臨床研修プログラムのどれかに所属し修業に励む。初期研修プログラムは内科6か月、救急3か月、地域医療1か月を必修し、外科、整形外科、小児科、産婦人科、精神科から2科目選択必修し、残りは各々自由に診療科を選んで研修することになっている(ただし左記は私の研修医時代の話であり、これまでに幾度かマイナーチェンジされている)。2年間の修業を終えて初めて臨床医の資格が与えられ、初期臨床研修を終えていない者は診療行為(特に健康保険制度に則った保険診療)が許されていない。初期臨床研修制度は日本の医療を大きく変え、未だ賛否両論が続く(私はこの制度で育った人間であり、以前と比較することができないのでこれ以上のことは言及しない)。

私は医師の少ない地域で全科的、総合的に診療する医師を目指していたので、大都市から車で3時間は離れた伊豆で医師生活をスタートさせた。私の研修病院は当時で年間の救急車受け入れが約4000台、時間外のウォークイン(救急車以外で来る患者)が約6000人となかなかのハードぶりだった(現在はさらに増えている)。初期研修時代の花形といえば当直業務(17時~翌朝8時半までの時間外受診に対応する)であり、当直の上級医にくっ付いて副直医として当直研修をする。救急車や時間外受診がこれだけになると仮眠は2時間も取れれば良い方である。しかも伊豆半島には3次医療機関(超重症患者を受け入れる医療機関)はほぼ順天堂大学付属静岡病院しかないため、私の研修病院は急患や救急車を絶対に断ってはいけない病院だった(順天の疲弊を防ぐため)。

優秀な救急科の後期研修医が「自分が初期研修医の時は副直業務を月8回はやったよ」と語っていた。彼が初期研修を過ごした病院は、救急車受け入れ台数年間8000台の病院である。『そのくらいやらんと彼のようにはなれんな』と思った私は、義務である月4回の副直業務の他に、この眠れない副直業務を追加で月4回、無給で志願した(身体の無理が利くのは若いうちだけで、今ではとてもとても無理だが…)。しかし熱意だけあっても如何ともしがたいのが当直業務である。これまた優秀な救急科の女医からは「自分の頭を使って考えないとできるようにならないでしょう⁈」、「指示を待っているんじゃなくて、まずは自分ができることをする‼」と言われ続けた。優秀な上級医に恵まれ、ドン臭い私も何とか初期研修を終えることができた。研修病院には大変感謝しているが、実は嫌な思いもたくさんさせられ、残念ながら初期研修終了後は全く交流を断っている。

何年も経過して再び伊豆で働く機会を得たが、自分の研修病院が嫌いだったためほぼほぼ交流のない病院で働き始めた(伊豆は箱根、天城などの急峻な峠で遮られ、東西では全く違う生活圏なのである)。当直をしていたある夜、1台の救急車を受け入れた。救急隊の隊長から「○○病院にいらした浅川先生ですよね?」と訊かれた。「ああぁぁ、はぁい。ぼ、僕のことなんか覚えてるんですか?」と驚きながら訊き返した。「もちろんです。その節は大変お世話になりましたから」との隊長の言葉に、「今でもダメ医者だけど、当時はダメダメ研修医だったんだけどねぇ…」と笑って返すしかなかった。特徴的な隊長のことは覚えているが、残念ながら彼のことは記憶になかった。私が研修医のころは恐らく年齢的にまだ隊長ではなかっただろう。私も何とか医者稼業を続け、彼はそれは立派な救急隊長になっていることが誠に感慨深い。初期研修当時は嫌な思いをたくさんしたが、『副直を頑張って良かったな。僕なんぞも少しは役に立ってたんだな』と感傷に浸り、研修病院に抱いていたわだかまりもすっかり晴れるのだった…