回復期リハビリテーション(回リハ)病棟
勤務医として最後に過ごしたのが回復期リハビリテーション(回リハ)病棟だった。回リハ病棟とは罹患、受傷などで身体機能や日常生活を行うのに必要な機能(一般にADLやIADLという)が低下し、地域社会に戻っても困難が予想される方にリハビリを施す病棟である。回リハでは普段着に着替え、食堂に集まり食事をし、1回1時間ほどのリハビリを2〜3回ほどこなす。中には自主練や宿題を与えられる方もいる。そこで大いに活躍するのがリハビリを施す療法士(理学、作業療法士ならびに言語聴覚士)である。たくさんの療法士が働いており(私が勤めた病院には120名ほど在籍していたか)、熱気と活気に満ち溢れた病棟なのである。
高齢化に伴い、回リハ病棟を取り巻く環境も大きく変わった。急性期病院の負担を軽減するための転院先の一つに見なされるようになり、新入院の3割は重症患者であることが求められるようになった。さらに、全患者の回復度合い(数値化される)を全患者の平均在院日数で割る実績指数というものが測られるようになった。入院期間は短く、でもリハビリ効果は出す、より効率的なリハビリが求められるようになった。そして上記2つが基準を満たさないと診療報酬が減らされるのである。また少し田舎の回リハ病棟では患者の8割以上が75歳以上の高齢者であり、100歳の方でも回リハに転院して来る時代となった。高齢者は元々慢性心不全、糖尿病、肺気腫などの持病を抱えた方が多く、回リハ病棟の担当医も患者の全身管理が求められるようになった。全身管理ができなければ、同僚の内科医にいちいちコンサルトしなければならないからだ。
もっと動けるようにならないのか、もっと食べられるようにならないのか、酸素につながっている患者であれば酸素の量を減らせないのか、療法士の先生方に無理難題を投げつけてしまった。でも療法士の先生方は見事に期待に応えてくれ、私もそんな彼らに大いに触発された。それまで何となく食べられなさそうと判断していた嚥下機能だったが、嚥下内視鏡(咽喉頭を直接カメラで覗き、どのくらい機能が落ちているのか診断するためにの手技)を習いに行ったほどである。多くの療法士達と過ごした回リハ勤務は非常に楽しく、貴重な経験となった。
70代前半のくも膜下出血後の女性がいた。前医から入院生活に馴染めないでいるとの送りはあったが、重い半身麻痺は元より転院早々から「ウワァ〜」と大声を出しており、到着早々からたまらず抗精神病薬を処方するほどだった。『リハビリできんのか?』と内心心配したが、何とか薬で落ち着きリハビリに乗るようになった。彼女の口癖は「いつになったら帰れるんだ?」であり、「今の状態で退院しても家族が困るでしょ?」と言っても理解いただけそうになかった。そのうち私とは一切口をきかなくなり、病棟スタッフとそれまで和かに会話していたのに、私が近づいて挨拶すると表情を無くすのである。あるとき珍しく返事してくるなと思ったら、「先生は良いですね、いつも幸せそうで…」と嫌味を言ってくるのだった。退院できないのはどうも私が原因だと思い込んでいるらしい。看護師長からも「先生さえ悪者でいてくれれば万事丸く収まります…」と言われる始末だった。
重い半身麻痺は如何ともしがたく自宅退院が危ぶまれるも、息子が休職して在宅介護するという。しかも自宅はアパートの2階だが、階段昇降できる車椅子を導入しての退院だった。退院1か月後、訪問リハビリを受けていたため私の外来に現れた。診察室に入室するやいなや、「入院中は自分勝手なことを多々申しまして大変申し訳ございませんでした…」と謝られた。彼女には重い高次脳機能障害が残っているため聞き分けがなくとも仕方ないと思っていたので、『自覚してたのか…』と驚きつつ「たくさん浴びせられたね。でも幸せそうで何よりです…」と笑うしかなかった。彼女を自宅に帰すためにリハビリに加え、家族への介護指導、住宅改修や福祉用具を揃えるなどの環境整備にも療法士達は多いに尽力してくれた。改めて療法士の先生方に感謝…